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吸血鬼日和.txt
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† † †
それは夏の日の早朝、蒼と灰色の曇天の空の下でのことだった。曲がり角のところで何かがぼくの体にぶつかった。
少しの間ぼくがそれに気付かなかったのは、その衝撃が真綿のように軽かった為だろう。
どん、というよりはぽふっ、という感触だ。
出会い頭に衝突した相手は、ぼくの通う学校の制服を着た少女だった。彼女は道路に倒れたままぴくりとも動かない。
「……ああ、えっと、キミ意識あるかな」
返事は無い、つまり気絶しているということだ。保健室まで連れて行けば何とかなるだろう。ぼくはくたっと力の抜けた少女の身体を抱き上げて歩き出す。
「よおっ、継杜。朝っぱらから美少女を誘拐とはいい趣味してるじゃないか」
そう言って肩を叩いてきたのは見知った級友だ。ときに悪友ともいう。
「莫迦を言うな樋口。せっかく人が、衝突で失神した女子を救助しているというのに」
「衝突ぅ? 二トントラックにでも跳ね飛ばされたか?」
「違う、ぶつかったのはぼくの身体だ。そしたら不運にも失神したみたいだ」
「ちょっ、お前よくそれで平然としてられるな。普通もっと取り乱すぜ? まあお前らしいといえば、らしいけどよ……」
樋口のオーバーリアクションにはもう慣れている。たしか保健室は向かって左側だったか。多少時間をとられるだろうから、早めに来たのは幸いだった。
「ぼくはこの子を保健室に預けてくる。先に行っててくれ」
そう言って、足の進行を教室とは別方向へ向ける。
「おう、教室で待ってるぜ。授業に遅れんなよーっ」
手を振る樋口を一瞥してから、ふと両腕に収まっている女の子に意識を向ける。
そういえばやけに体重も軽い。痩せっぽちで顔色は蒼白、それがぼくにとって彼女の第一印象だった。
† † †
早朝の保健室は普段ならまったく縁が無い、それだけに新鮮な情景にも思えた。
「ふうん、なるほどねん。はずみで脳震盪でも起こしたか、――それとも貧血ってところかなぁ」
カジュアルな白衣を纏った自称セクシー養護教諭の白川先生は、いま件の少女をベッドに寝かせたところだ。
「じゃあぼくはこれで。あとはよろしくお願いします」
ぺこりと会釈をして部屋を出ようとする。そうして後ろを向いたときだった。
「ん……なっ。た、大変だ、脈が――心臓が動いてない」
背後から白川先生の声。その内容の簡潔なる事実は、ぼくを驚愕させるのに十分だった。日常の枠外の展開に戦慄する。
「本当ですか――、いったい何が原因ですか」
「そんなの一瞬で分かるなら医者は要らないってねっ。あたしは心臓マッサージするから、あんたは人口呼吸しなさい。勢いあまって肺破裂しないように、どさくさで舌とか挿れなさんなよ少年っ」
とん、とぼくの背中を押す先生。
「軽口は結構ですよ、了解しまし――って、まさかマウストゥマウスですか!?」
「照れてる暇は皆無もいいとこ、一刻を争う状況よっ」
な、何てことだ。だが人命は何につけても最優先、そうだこれは人命救助だ。だからぼくの心臓の早鐘のごとき鼓動も気のせいだ。ああ、さらば――ぼくのはじめて。
覚悟を決めて顔を少女の唇に近づけ――、
「へぶらっ」
口の中に散る鉄錆の味。心臓停止したはずの少女の額は、ぼくの顔面にクリーンヒットした。唖然としたままのぼくを尻目に少女は、呑気に上半身を起こす。
「ん……っ、あれ、ここどこ? ふぁ……おなかへったなぁ――、ふにゃん」
ぼくたちの緊張などどこ吹く風という感じで再び眠りについた。縁側の猫かこの子は。
「……つっ、ひどいですよ先生。心臓が止まったとか、冗談でも程がありますよ」
くそっ、気の迷いとはいえぼくのドキドキを返してくれ。ぼくは後ろ手でドアを閉めて保健室を後にした。
「――おかしいな、本当に鼓動は無かったんだが……」
閉められたドアの向こうの先生の呟きは、ぼくの耳に届くことはなかった。
† † †
そんなわけで余計な時間をくったぼくは、見事に一時限目に遅刻した。そのために苛烈な叱咤を受けたが、それは半ば予想していたことだ。本当に予想外な出来事は、次の瞬間に起きた。
「……ああ、では突然だが転校生を紹介する。今日から君たちとともに学ぶ学友が増えることになる。――入ってきなさい」
そう担任に促されて教室に入ってきたのは、――誰あろう、今朝ただならぬ出会い頭をやらかした少女だった。……もう回復したのか。
「み、みなさんはじめましてっ! 霧枝小夜といいます。元気だけが取り柄ですけど、仲良くしてください、よ、よろしくにゃっ!」
妙にハイテンションな口調とは裏腹に、足元はふらついている。――大丈夫なのか。顔色といい、どう見ても病弱な感じにしか見えない。
「んっと、じゃあ席はそこ、一番後ろに空いてるところがあるよな?」
そう言って担任が指差したのは、よりによってぼくの真後ろの空席だった。
霧枝と名乗った少女は、おぼつかない足取りでその席にとすっと納まる。
「あ、あの、いろいろ迷惑かけちゃうかもしれないけど、こ……こっ、これからどうぞよろしくっ」
腰を下ろすなり深々と頭を下げる。いっそ清々しいくらいの会釈だ。
「うんうん、小夜ちゃんだっけ? そんなに力まなくていいからさ。俺は樋口ってんだ、で、こいつは継杜。無愛想でやさぐれた感じだけど、怖がらないでやってくれな」
真っ先に食いついたのはぼくの右隣の樋口だった。相変わらず女子にはチェックが早い。
「うんっ、ありがとう樋口くん、――それから、継杜くん」
それに屈託無い笑顔で応じる霧枝ちゃん。
「――明でいいよ」
ふと、我知らずそう呟いていた。
「むむ、最初から名前呼び捨てでいいって、あの堅物の継杜が自分から? こ、これはひょっとするとひょっとするかあっ?」
樋口の矛先がこっちに向いた。何を莫迦なことを。見ろ、霧枝ちゃんだって混乱している。
「えっ、え? 何がどうひょっとするのかな? え、えっと、その、あ――明くん? ……かはぁ、ごふっ!」
びちゃり。何か粘性の液体の塊がぼくの顔めがけて。赤くて、鉄のニオイ……血?
「――――あ」
彼女の吐血は、ぼくとぼくの周辺を見事なまでに朱に染めていた。
「だっ、だだだ大丈夫、いつものことですからっ、心配ないです……ぅ、えふっ」
元気にすら思える微笑のまま、なお真っ赤な血を吐き散らす霧枝ちゃん。
――どう考えても大丈夫じゃあないだろっ。そう心の中で突っ込んだのはぼくだけではないはずだ。
† † †
暮れなずむ夕日を仰ぐ放課後の教室。もはや他の生徒の姿は見えない。
「ふう、酷い一日だったとはいえ、……忘れ物なんて、ぼくらしくもない」
――結局あの後、彼女は再び保健室に担ぎこまれた。ちなみに、あちこち飛散した血痕を拭き取ったのはぼくだ。
傾いた陽の差す窓際、ぼくは机に置き忘れた鞄を手に取る。同時に、からりと引き戸の開かれる音が耳に届いた。首だけ振り向いて入り口のほうに目をやる。
「ぁ……明、――く、ん……」
そこに居たのは霧枝ちゃんだった。儚げな、たどたどしい口調。空元気めいた今朝の様子でさえ健康優良に思えるほどだ。
「大丈夫か、先生でも呼ぼうか?」
ぼくが完全に振り返ったその時、彼女はいつの間にか傍まで来ていた。身長差のせいで見下ろす格好になる。
「…………あぅ」
呻きにも似た吐息とともに、霧枝ちゃんはぼくへ向けて倒れこんだ。
「霧枝ちゃん、いったいどうし――」
「ふにゃあ……、おなか、へったよぅ……」
まるで呑気な言葉に安堵した次の瞬間、ぼくの身体はぴくりと痺れて動きを止める。その原因は、不意に首筋に感じた彼女の唇の冷たさだった。そして――、
「――痛ッ、ぅ……あっ、く――」
小さな、けれど鋭く刺すような痛み。理性でなく反射に近い反応で、腕を前に突き出した。
ぼくから引き離された霧枝ちゃんは、後ろによろけて窓枠にもたれかかる。
ぼくはそれを目で追う。――否、追ってしまう。そして見てしまった。
透明感のある銀髪は陽光に透けて茜色、瞳はそれより遥か濃く真紅に彩られ、そして口元に覗く白い――牙。そこに僅かに見える朱色は……ぼくの、血?
「ひ、あ、あああああああああああああっ」
ぼくはぼく自身の叫びを聞いた。
† † †
寺の朝は早い。ぼくもその例に洩れず。親父殿などはとうに起きて僧衣に着替えている。
この爽やかな休日の朝、真っ先にすべきことは一つだ。布団を蹴って跳ね起き、障子の向こうに隠れる。
「さあ明っ、朝稽古の時間じゃ! いざ父と渾身の一撃を交し合おうぞぉっ!!」
それと同時に樫の六尺棒を携えて寝室に乗り込んできた賊は、言うまでも無く親父殿だ。
(冗談じゃない、朝っぱらからどうしてあんな怪物の相手をしなけりゃならんのだ)
ぼくは心の中で呟く。何しろ親父殿は神道夢想流大目録術許し、いわゆる免許皆伝の業前。
「こらあっ、また逃げおったか、このすくたれ者があぁっ! 連日の修練こそが弛まぬ心身の唯一なる資本と、常に言っておろうがっ!!」
静謐な空気に親父殿の声が響く。だが臆病呼ばわりされる筋合いも無いと思うのだ。
(おまけに何だ、あの僧侶にあるまじき、僧衣がはちきれんばかりの筋肉は)
時代が時代ならば、かの武蔵坊弁慶と轡を並べ僧兵の雄として名を馳せていたとしても、まるで不思議はない。さて、それにしてもこの状況を如何にして脱しようか。
「まあまあ、あなた、その辺にしておきなさい。予約の時間に遅れてしまうでしょう?」
親父殿のだみ声に代わって凛と響いたのは、誰あろう母上殿の声だった。
艶やかな椿柄の紬の袖をついっと振って親父殿を呼ぶ。
「むぅ……、そうであった。仕方あるまい、今日は勘弁としよう」
親父殿は上段に構えていた六尺棒の切っ先を下ろして溜息をつく。
「――それと明。いつまでも其処に隠れていないで、潔く出てきなさい?」
背筋がぴくんと反応する。親父殿は一流の武芸者だが、こと気配察知と洞察力に於いては母上殿の右に出るものはいない。
「……はい、母さん」
ぼくは観念して障子を開けて姿をあらわす。
「ぬぬう、其処に居おったか明っ! よくも父を謀ってくれたな、覚悟するがいい――」
「止しなさいな、時間が無いって言ってるでしょう。それとも私に逆らうつもり? あなた」
「り、了解した。すぐに車を用意するぞっ」
一心に駆けて行く親父殿。その後姿はどこか哀愁を帯びていた。
「ふふっ、災難だったわね明。私たちは出掛けてくるから、気兼ねしなくていいわよ」
からからと微笑む母上殿を見て悟る。親父殿やぼくがどれだけ武術を極めようと、この母上殿には何を於いても敵わないだろう。
高らかなエンジン音を寺院の境内に響かせたのは、親父殿の愛車ことフィアット500だ。用事というのも、案の定ドライブに違いない。
「ようし、準備は出来た。では行こう母さんっ!」
察するに今日は、親子ならぬ夫婦水入らずの日なのだろう。仲良きことは美しき哉、か。
「じゃあ行って来るわね明、今日は帰れないかもしれないから、留守番は何卒よろしくお願いしますわ」
母さんはひらりと助手席に乗り込み、二人を乗せた車はあっという間に彼方へと消えた。
「やれやれ………………」
独り残されたぼくは、何をするでもなく門の内側へと歩いて戻った。
† † †
ぼくは縁側で日中の陽光を仰ぎながら、ただ暇を持て余していた。今日は土曜日で、学校も無ければ約束も無い。何か重大な記憶があった気もするが思い出せない。
ピンポーン。
不意にベルが鳴った。母さんに気配を看破されたのと同様に、背筋がびくりとする。
訳もなく沸き起こる不安感を努めて無視しつつ玄関に向かった。
「いま開けますよ。どなたですか、――――っ!?」
全身の血が瞬時に凍りついた。境内に敷き詰められた砂利の上に佇んでいたのは他でもない、ぼくの本能が忘却を試みていたらしき霧枝ちゃんだった。
「あ、あの……こんな朝早くからごめんねっ……明くん?」
その透き通る声を皮切りとして、蘇る記憶がフラッシュバックする。真紅の瞳。純白の牙。首筋の――血。
「ひっ――――あ、くっ」
血管を酷寒の恐怖が駆け巡る。
「いきなり来て、びっくりさせちゃったかなっ? 先生に聞いて教えてもらったんだ、明くんの住所。――勝手にごめんねっ。でもわたし、どうしても明くんにしないといけないことがあったから……。あの時出来なかったこと。明くん…………」
少女はぼくの名を囁いて、ふらりとこちらの方へ近づいてくる。ぼくの脳裏に横切るのは、人外の眼光と様相を向ける霧枝ちゃんの姿。
「あの、本当にごめんなさいっ。許してとは言えないけど、わ、わたしは――わらばっ」
ぐちゃっと眼前を染めた赤色は、紛れも無く霧枝ちゃんの吐血で――。
ぼくは境内に敷き詰められた玉石が原色の赤に彩られるのを見た。
† † †
「――まったく、何なんだよいったい。人間? そんな莫迦な、そんなはずが無い。あいつらは人間じゃあなくて、そんなのに関わるなんて真っ平ごめんだよ!」
「あ、あの、ありがとう――、ございます……」
畳の上に敷かれた布団の上に腰掛けるのは霧枝ちゃんだ。くそっ、可愛い顔をしても騙されるものか。ぼくはキミの正体を知ってるんだからなっ。
「……霧枝ちゃん、キミはいったい何者なんだよ」
彼女は病人のようにうなだれた姿勢のまま答える。
「えっと、その――、本当のこと言って、いいのかなっ?」
声の調子だけは元気なようにすら聞こえるのが痛々しくも思えた。
「何とでも。もはや何を言われても驚かないさ、きっとね」
「――――うん、わたしね、吸血鬼なんだ……」
「な、何だってええええええぇぇぇぇぇぇあああっ!?」
真顔のまま驚いてみる。相手は人間じゃない、それくらいのことは分かっていた。
「ひ、ひゃあぁんっ」
気圧されて後ろ向きにこてんと横たわる彼女。
「――キミがひっくり返ってどうするんだ、驚いてるのはこっちだよ」
そう言いつつも抱き起こしてしまうのは、条件反射のようなものだ。
「……ご、ごめんなさいっ」
「いいよ。半ば察してはいたさ、どう考えたって人間じゃないもんな。それにしたってさ、……いったい全体、キミはどういう存在なんだよ」
言いつつ、自然と首筋を庇ってしまう。
「……………………」
黙りこくってしまう霧枝ちゃん。沈黙に耐えられず先に口を開いたのは、ぼくの方だった。
「吸血鬼――といえば、日光と、十字架と、それからニンニクに弱いっていう、あれ?」
「……え、えっと、うん、どれも苦手だけど。――でも、だからってそれで死んだりはしないよっ。た、たまに気絶しちゃったりはするけど」
何てことだ。そういえば、普通に日中も歩き回っていたし。最近の吸血鬼は弱点をも克服しつつあるのか、……恐ろしい。
「――そ、それで、生命力は格別に強くて、傷も一瞬で治ったりする?」
「そんなこと無いかなぁ、昨日の擦り傷もそのままだし。抵抗も弱いのかな、しょっちゅう病気してるしねっ、あはは」
……話が少し違ってきた気がする。
「じゃあ、人間を片手で軽く投げ飛ばせるくらいの力があったり? ――それこそ人間離れしたような、さ」
「ええ、酷いよっ、こんなか弱い女の子つかまえてさ。自慢じゃないけど、腕相撲で小学生の子に負けたことだってあるし……」
霧枝ちゃんは照れたように、てへへっとはにかんだ表情。嘘があるようには到底思えない。
この話が本当だとすれば、それは――。
「……吸血鬼っていうからには、人の首筋に牙を立てて、血を、吸う――んだろ。
昨日ぼくに、そうしようとしたみたいに」
「違う、ちがうもんっ! 昨日のアレは、自分でも意識が暴走してたんだよぅ。だって、吸わないとお腹が減って、……死んじゃうんだもん」
「――だからぼくを襲ったのか? もしかして今も狙ってるのかよ。その為に訪ねてきたのか? 無差別で、血が吸えるなら、だ、誰でもいいってのかよっ」
「だからちがうんだってばぁ……、昨日のは本当に変だったんだ。人間なら誰でもいいってわけでもないよ。血液型が合わなかったら死んじゃうし、うっかり吸いすぎてもショックで死んじゃうんだよっ、――もちろん、ボクの方が」
今にも泣きそうな――実際すでに涙目の――その瞳を向けて、懇願するようにぼくに迫る霧枝ちゃん。
「……何だよそれ、それじゃあまるで人間以下じゃないか。吸血鬼だって? 特長がまったく裏返しだ。いや、太陽に弱いってのは同じか。――待てよ。だったら何で、よりによってこんな清々しいくらい晴れた日中に訪ねてきたんだよ」
「え、えっ? だって、その、……昨日のことごめんねってちゃんと謝らなきゃって思って、――でも明くんの住所分からないからあちこち探して、学校に電話して聞いたりして、……朝に出掛けたんだけど、気付いたら真昼になってた。えっと、今更だけど……ごめんなさい」
霧枝ちゃんは、布団に臥したまま頭を垂れる
「……………………」
ぼくは答えない。拒絶の意ではなく、自分に問うていた。ごめんなさいと、弱った声で、ただそれだけを言うために、天敵である筈の陽光を浴びながら。――その動機を。
「あっ、でもますます迷惑かけた――かなぁ。玄関先血まみれにしちゃったし、そのうえ布団まで用意させて。あははっ。駄目だね、ボク……」
しゅんとして身を縮こめる霧枝ちゃん。ぼくはそれを見て口を開く。
「まったく、とんだ迷惑だよ。襲われたと思ったら今度は飽きれるくらい弱いところを見せられて、酷い無理までして、挙句に吐血して倒れて。そんな……そんなの、冗談じゃない――」
「ぁ……、うん、そうだよね。赦してくれ、なんて言えないよね。ごめん長居しちゃったねっ、ボクもう帰る――から。んにゃっ」
霧枝ちゃんは立ち上がろうとして、上体だけ起こしてくずおれる。転んだのではなく、純粋に力が入らないようだ。
ぼくはそれを見て嘆息する。
「――本当に、弱いにも程があるよ。悪いと思うのなら、せめて体力が戻るまで休んでいってくれ。自分を気遣わないなんて、それこそ許さない」
まったく、冗談じゃない。ただ謝るためだけに、ましてぼくに対して、それだけで自身を危険に晒す。そんな危なっかしい奴を、無下に放り出せるはずがあるか。
「ぁえ? い、いいの? ううん、そんなの明くんに悪いよ。……で、でも、ありがと――うぶろばっ、かはっ……あ、あはは、びっくりして血がいっぱい……ぁう」
嗚呼。人――それも少女――が吐血するのを何度も見るなど、人生で初めてだ。放っておけないにも程がある。……さて、この掃除にどれだけ掛かるだろうか。
† † †
今朝も空気は澄み渡り、蒼天からの黄金の日差しが満ちる。これを爽快と感じない奴はいないと思う。――もっとも、人間に限っての話だが。
夜になっても一向に調子が戻らないのは予想外だった。まさか泊める羽目になるとは。
親父殿と母さんが居ないのは幸いだったのか、それとも不運だったのか。
それでも、朝になって調子を取り戻したのには安心したが。
台所からは、小気味よい包丁の音。厨房に立つエプロン姿が目に眩しい。
「……まったく厄介だ。朝食なんか、ぼく独りなら何でもいいんだが。《血以外でも食べられるけど、胃腸に優しいものじゃないと》だって? そんなの僕が知ったことじゃない、そこまで面倒みる義理もない、やれやれ。……ん、いい出来だ」
鍋の中には、綺麗に砕けた米がくつくつと煮えている。鶏で出汁をとり、具に韮を入れた。滋養にはいいはずだ。この家は仮にも禅宗の寺で、《葷酒山門に入るを許さず》の結界石もあるのだが、……まあ、これくらいは許されるだろう。
「――お粥、出来たよ」
美濃雑紙の張られた障子を開けて寝室に入る。片手には湯気の立つ深皿と匙の乗ったお盆。
「わっほう、いい香りだね。何から何までごめんねっ。――でも明くん、料理できたんだねっ、ちょっと意外。はふ……わ、熱ッ、あちゃひゃっ、かふっ」
すっかり元気になったものだ。というか、なり過ぎだ。少なくともテンションだけは。
軽く咳き込むたび吐血を覚悟するのにも、もはや慣れてきた。
「慌てないで食べてくれ、それと零さないようにな――吐血よりは幾分ましだけど」
顔色は相変わらず蒼白に近い。吸血鬼はあれで通常なのかもしれないが。
「ん、美味しい。普通に食べたのなんて半年振りだよ。これは精がつきそうだねっ」
まったく、何ともギリギリな発言を――
「――って、半年だって? 何だよそれ」
さり気無く常識外を口にするのは、未だ慣れそうにない。
「ふー……はむっ。うん、血が無ければ生きてられない代わりに、食べなくてもそうは死なないんだ、ボクは。はふ、んぅ。まあ、血も飲まなくなって二年少しになるけど」
――吐血してばかりで血が足りなくならないのかと思った。
「……………………」
彼女は饒舌で、それに反比例してぼくは沈黙。
流石に想像の斜め上で、食べながら喋る無作法を咎める気にもならなかった。
「はあぁ、ほんとに美味だよっ。この青い葉っぱの細切れがいい味出してる。身体の芯から熱されるみたいな、あったかぁい味だね」
――元気になったのはいいが。
「ただのお粥だよ。それに、おだてても何もないぞ。だ、だから、そんな微笑で褒めないでくれ、頼むから」
幽かな光を宿す薄い色素の瞳、その視線は致命的だ。本当に止めてほしい。でなければ、照れる。
「んぅー、ひょっとして明くんって……、かわいい?」
「何がだよ、冗談は結構だって。それより、早く食べないと冷めるだろ」
この展開は危険だ。樋口や母さんに茶化される、あるいは親父殿に暴走されるのは耐性獲得済みだ。だが、こんな状況をかつて想定しえたか? いいや、それはない。
「それとも、明くんも食べたい?そうだよね、明くんが作ったんだもん。ボクばっかり食べてごめんねっ。はい、あーん」
いやいや待て、これは流石におかしいだろう。霧枝ちゃんの調子が高いのは自己紹介の時からだが、ここに至ってはどこか突き抜けているとしか思えない。色に乏しい肌でさえ紅がさして見えるほどだ。
「――恥ずかしいにも程があるッ、冗談もいい加減にしてくれい!!」
そこに卓袱台があれば迷い無く引っ繰り返す勢いでぼくは吼えた。今考えれば、動顛するにも程があると自分に言ってやりたい。
「ひゃんっ、わ、わ、わわっ、ごふぁっ……けほっ」
びくりと震えた霧枝ちゃんは、慌てて吐血してしまう。量は控えめ、のみならまだしも、はずみで皿を落としてしまった。
「危な――」
止める余裕も無く、よりによってそれは、彼女自身の身体へ盛大にぶちまけられる。
「熱ッ――、ひゃああああああん、あっ、あつ、熱いよぅっ、とって取ってっ」
く、まさかこんな――いや、こんな事態だからこそ冷静になれ。
「そのままじゃ火傷する、いま着てるパジャマを脱いで着替えて。ぼくは向こうを向いて……いや、廊下に出ているから。それとタオルも持ってくるっ」
言って立ち上がり、脇目も振らず歩き出した。
「――帰ったぞ明、達者で居たか。さあ、昨日しそびれた棒術の稽古をいざ参らんッ! 筋肉と筋肉の語らいを――」
障子を開けた刹那、鉢合わせたのは親父殿だった。相手がぴきりと固まった。
「え……っと」
ぼくがすべきことは何だろう。先ずは、状況説目だろうか。
霧枝ちゃんが居るのは、――自立できないほどの体調不良のため泊めたからだ。
彼女が布団に寝ているのは、――今しがたまで横になっていたからだ。
その布団が乱れているのは、――お粥を零して暴れたからだ。
布団の生々しい血の染みは、――霧枝ちゃんの吐血だ。
その彼女の着衣がはだけているのは、――前述のお粥で火傷するのを防ぐためだ。
問題ない、すべてに真実の説明がつく。
だが、一見したばかりの親父殿が、その説明を聞く余裕を持ち合わせるかは別問題だ。
「うぬれは……この不可侵なる仏門の裡で何という不埒を犯しておるかッ! わが息子ながら情けない――、そこに直れこの不届者め、儂が直々に性根を叩き直してやるわあああああああッッ!!」
そう言って振り回すのは、おそらく稽古と称した扱きの為に用意したであろう六尺棒だ。
「違――、誤解だ親父殿っ」
一緒に帰宅した母さんはこの光景を見るなり、
「あらあらまあまあ、これはまた何ともはや。何と言いますか――青春ですねえ。皆々、元気なことは良き哉、と言いましょう。ふふ」
などと、何ともはや平和なことを。
丸めた頭に青筋を浮かべ、筋肉隆々として立ちはだかるその姿の威圧は、金剛力士像に匹敵する。おまけにそれが機敏に動いて攻撃してくるのだから性質が悪いにも程がある。
「問答無用、ふんがぁッ! はあああ……、ぬん!!」
疾風一閃。必殺に値する一撃の、その怒涛の連撃。咄嗟に拾ったもう一本の六尺棒で受けなければ肋骨くらいは――いや、どころかこの家の大黒柱でもへし折りそうな勢いだ。
「くぁ……ッよ、よもや息子相手に呼吸法の奥義まで使って挑むかよ――親父殿」
受けた腕が身体ごと痺れている。畜生、勘違いで一方的に粛清されて堪るものか。
「ふうぅ……、せいやッ!」
胴への横薙ぎに円の振りで対し、持ち手側の柄で払い流す。逡巡せず棒の前後を返し、逆側の先端で、突く!!
「ぬぅ……ッ」
見事なほど鳩尾に食い込んだ――筈だが、
「ふん、全く以って効かぬわあああッ! ふっ、ぬがはぁッ」
相手は倒れることはおろか、よろけすらしなかった。筋肉の鎧、恐るべし……。
「がはっ、はぎ――いっ、ふべらっ」
ぼくは滅多打ちにされて飛んだ。比喩ではなく、文字通り枯枝のように宙を舞う。
天地逆の霧枝ちゃんの顔――いいや逆さなのはぼくだ――が目に映り、障子を突き破って、縁側の際を越え、その先は………庭池だ。
大きな水音とともに飛沫が上がった。
「ふん、ふんはッ、この程度で赦されると思うな、骨の髄まで悔い改めさせてくれるッ」
(く、う……、ちょ、ちょっと待っ……)
「お待ちなさい、あなた。もうその辺で十分に過ぎるでしょう、そろそろあの子の弁明でも聞いてあげるべきでは」
いろいろと絶妙すぎるタイミングでの助け舟。
「ふおあはぁぁぁ……、喰らうがいいッ、神道夢想流秘奥義――」
だが、激昂したままの親父殿の耳には届いていない。莫迦な、危険すぎる状況だ。
「あなた……聴こえませんでしたか? 待ちなさい、と、言っている――でしょうッ」
向き合った二つの人影が交差するのを、濡れ鼠の格好のまま目にする。直後、
「うぶろばっ、……ッあだだだだ、がはっ」
――親父殿は一回転して地面に叩きつけられていた。だから、危険すぎると言ったんだ。
比類なき達人の親父殿ですら母さんに太刀打ちできない。それは合気のようにも思えたが、ぼくの程度ではその術理は測りかねた。
「ふふっ、早いとこ池から上がりなさい、明。風邪引くわよ。まあまあ、話はこれからゆっくりと伺うことにするから」
そう言って涼しい顔で微笑む母さん。その悟りきった目は、おそらく何もかも察している。
まあ、何だ。ぼくが今言いたいのは一つだ。
「できれば、その、もう少し早く助けてください……」
† † †
乾いた服に着替えたぼくは、母さんと親父殿の鎮座する居間へ戻ってきた。
「事情はさっき話したとおりだよ。……それより、霧枝ちゃんの様子はどうかな」
とりあえず説明を終えて親父殿の矛先も納まったのは幸いだ。そして霧枝ちゃんはあの直後、くったりと倒れてしまったらしい。
「うん、大丈夫よ。落ち着いてすうすう眠ってるわね。んー、むしろ心配なのは冷え性のほうかしら、随分と肌が冷えてましたから」
彼女の正体や体質については適当に誤魔化しておいた。
「むぅ……、よもや息子の級友の前で醜態を晒してしまうとは、不覚であったッ。も、猛省せねば……」
親父殿は、あの様子だと相当母さんに絞られたようだ。
「ところで明、霧枝さんの様態で少し気になったのだけれど」
「何がどうして気になったかな、母さん」
微かに鼓動が早まった。もし吸血鬼のことが判明すればおそらく、けして良い方向には働かない。
「そうね、肌は冷ややかだけど仄かに微熱、軽い意識昏迷、けれど気分は高揚の傾向を示して、これって――酩酊、にも思えるわね」
酩酊、すなわち酔っ払い。まるで予想外の単語に困惑した。
「ぬ……、まさか明、婦女子を連れ込んで酒を勧め、相手が酔い潰れたのを見計らって、あらぬ――」
「違う、真っ先に疑うのも大概にしてくれ」
親父殿の疑惑は第一に否定しておく。でなければ、本当に肉体が破損しかねない。
しかし、原因は何だろうか。心当たりがあるとすれば、酒――さけ――葷酒………。
「――そうか、韮か……」
吸血鬼がニンニクを嫌うのは強い匂いのためだと言う。韮も同じ理由で禅宗では禁じられている。だとすれば。
「まあ確かにニンニクと似たようなものだけどさ……まさか酔うとは――」
「どうかした、明?」
危ない、思わず考えを口にしていた。
「いや、何でもないさ、きっとアレルギーみたいなものだよ。霧枝ちゃん、身体弱いらしいから」
冷静に流したつもりだが納得させられただろうか。表情を伺う。
「あらあら明、アレルギーを甘く見てはいけないですよ。時に大変な疾患の原因になったりするのだから。そうね、アレルゲンには気を付けておきましょう」
どうやらそのまま合点してくれたようだった。
「む、ところで、霧枝くんは今日も泊まるのか、それとも帰るにせよ、向こうの親御殿に連絡を入れておくべきだな、明」
「ああ……うん、それならぼくが済ませておいたから大丈夫。じゃあ、ぼくは部屋に戻ってるよ」
本当を言えば、ぼくも霧枝ちゃんの親のことなど聞いていないのだが。
立ち上がったところで、後ろから母さんの声。
「ねえ明、もしかすると首筋に違和感があったりしないでしょうね――」
心臓を穿たれた気がした。今ぼくは、首筋を気にして――否、いなかった。
母さんは意味深げに微笑んで、
「あらいやいや、別に何でも無かったわね。うふふっ、まあまあ、健康さえあればすべて好でしょう」
そして、それ以上は何も言わなかった。
† † †
その少し後、鉄紺色の夜の帳が辺りを覆い始めたころ。みしりと、ただ一度だけ床が軋む音がした。
「ぬぬ……今になって響いてきおった。怠惰してるようでいて、存外に腕を上げておる。ふふん、それでこそわが息子よ」
その呟きを最後に、一切の音が闇に溶けた。足音も気配も、擦り音すらなく障子が開く。
部屋の中央に敷かれた布団に寝ているのは、霊長最弱の吸血鬼の少女。
それを見下ろすのは、筋繊維の上に僧衣を纏った豪傑の坊主。
少女はただ無垢に静かな寝息を立てている。
坊主は不毛の頭にぴしゃりと掌を当てて唸る。
「む……う、姿形は殆んど人間のそれに違いない、だが何か引っ掛かる。……ん、そうだ、この娘からは人の匂いが嗅ぎとれぬ。ぬぅ、そういうことか――」
張り直されたばかりの障子は、開かれた時と同じように音も無く閉じられる。
それと同時に、廊下の暗がりに薄明かりが灯った。
「ふふっ、やはりあなたも感付いたみたいね。気になって、気配を殺して様子を見に来るくらいですもの、ね」
仄かな明かりに浮かんだ紬の柄は青藍の菖蒲。口元にはそっと微笑を湛えている。
「ふん、まったくあやつめ、あやかしの類に骨抜きにされるとはな。修行が足りんわ」
坊主は腕を組んで憮然とした表情で呟いた。
「くすくす、一体誰のことを言ってるんです? いやはや血は争えないと言いましょうか。それとも蛙の子は蛙とでも言うところかしら、あなた?」
女性はさも可笑しげに袖を振る。
「うぬぅ、では儂らはどうしておればいい。あやつら、むざむざ苦労することになるやも知れんのだぞ」
納得しつつも、なお受け入れ難いといった様子の坊主。その大きな肩にふわりと小さな手が乗せられた。
「まあまあ、子どもというのはいつの間にか成長していくものですよ。わたしたちはただ、見守っていてやればいいじゃありませんか。――んん、それとも、同じ穴の狢の方がいい例えかしらね、ふふ」
寄り添って歩いてゆく二人分の影。ふと女性が明かりのほうを振り返る。その口元には、きらりと白く光る牙が二つ。
† † †
今朝は曇天。可笑しいくらい虚弱な吸血鬼と出会った、つい先日の朝ような。
「んん、直射日光が届かないってのは気持ちいいねっ、まさに吸血鬼日和だよ。にゃん、にゃーん」
その吸血鬼は今、ぼくの隣で妙な鳴き声を発しながら歩いている。
「はしゃぐのも結構だけど、この間みたいに衝突死しかけないでくれ」
ぼくの言葉に対し霧枝ちゃんは、機嫌のいい猫のように身体を一捻りして、
「そしたら、今度こそ《まうすとぅまうす》?」
絶妙な切り返しを見せた。
「んー……、な、何だって? もしかして、いや、もしかしなくても、――あの時、気が付いてた……のかっ」
赤面する自分が憎い。不覚にも程がある。
――恨みます、白川先生。
「おおっす、継杜。いつも直立で歩いてんな」
いつもの調子で背中に手を張ってきたのは、確認するまでもなく樋口だ。
「姿勢のことでお前にどうこう言われたくないけどな……樋口」
こいつを見ると、半ば非日常だった時間が平常に戻ってゆくのを実感する。
「かははっ、……あれ、って小夜ちゃん? あれれっ何でまた、こいつと一緒に登校なんてしてるのさあ?」
「おはようっ樋口くん。えっと、それはね、明くんの家にお泊りしたからだよっ」
清々しいまでの微笑みで答える霧枝ちゃん。対照的に、目を見開いて硬直する樋口。
「なあっ、何だそれはあ。三日も経たないうちにそんな……、っていうか、いつの間にフラグが立ったんだああぁ」
――まあ、事情を知らずに聞けば、樋口の反応も分からなくはない。
「それでね――あっ、明くんの家がお寺さんなのは知ってるよね。お父さんがすごく面白いお坊さんでさっ、お母さんも優しい人でね、えへへっ、とにかく楽しくてさっ――」
なおも言葉を続ける霧枝ちゃん。確かに、自分の家庭を褒められるのは悪い気はしないが。
「……っり、両親公認ですかっ、それ何て――、えふっ、ぅあ、駄目だ鼻血が出るっ。嗚呼、少年少女らよ、何が君たちをそうさせるのか……」
もはやよく分からないが、樋口が壊れかけているのは確かなようだ。
「あぁ、念のため言っておくけど、おそらくお前が妄想しているような展開はまったく……、ほとんど、無いからな」
「樋口くんだったら、もうずっと向こうに駆けていったよ。《継杜のばかー》って」
本当だ、誰も居ない。
「…………とりあえず、行こうか」
「うんっ」
踏み出した足は、二人同時で綺麗に揃った。
† † †
その日の放課後。雲間から覗く夕日が、影法師を細長く道路上に引き伸ばしている。
「ん、じゃあボクの家はこっちだから、ここでお別れだねっ」
今日は一日中曇りの曖昧な天気だったためか、霧枝ちゃんはいつになく調子がいい。もはや空元気めいた儚さでなく、本当に元気に見えた。
「ああ、――明日も、学校に来れるかな」
ぼくはふと口にする。
「そうだねっ、うん、気持ちいい吸血鬼日和だったら、槍が降ろうとも行くよっ。それと、ボクからも質問。……また、家に行ってもいいかなっ、その、今度は謝りにじゃなくて、ふ、普通に遊びに行きたいな」
「うーん、寺だからやたら広いわりに特に何もないけどな。それでもいいなら、いつだって歓迎するさ。――あ、吐血は程々にな」
ぼくたちは二人、他愛ない約束を交し合ってそれぞれの帰路を往く。
日常を壊すほどの非日常も、こうして日常の一部に融けてゆくのだろう。
さて、帰ったら部屋を掃除しておいて、明日の吸血鬼日和でも願うとしようか。
(了)